タイのお寺で1週間の瞑想体験

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こんばんは。ゆかです。

以前、タイのお寺で1週間の瞑想体験をしました。どこからそんな酔狂なアイディアが湧いてきて、なおかつ実践しちゃったんだろうと思いますが、、。笑 実際やってみてどうだったのか!綴ってみます。

と、その前に。瞑想や仏教の教えは、とても素人に語り尽くせる内容ではありません。このブログではあくまで個人の解釈や考えを綴りますので、正しい教えを学びたい方はぜひプロの方にならってください。

境内の林。瞑想期間中は、なんとなく写真撮影が憚れてほぼなにも写真がない。

美しいチェンマイ旧市街の一風景

そもそも瞑想ってなに?

引用によると、以下の通りです。「ものごとをありのままに見る」という意味のヴィパッサナーは、インドのもっとも古い瞑想法の1つです。この瞑想法は2500年以上も昔、インドで、人間すべてに共通する病のための普遍的な治療法、すなわち「生きる技」として指導されました。(jp.dhamma.org)

なぜ「タイで」「瞑想」を「1週間」!?

アジアを旅するにあたって、色んな旅人の方々のブログを見て回って訪れたいスポットや、ルートのリサーチをしていた際、インドで瞑想体験をした方の記事に出会いました。「会話禁止、他者と目を合わせるの禁止、文章を読んだり書いたりすることも禁止の中、一日何時間もただひたすら瞑想だけをする」という内容でした。体験中の心境の変化と終了後の率直な想いを読めば読むほど、未知すぎる世界に興味が湧きました。

そこで、インドよりも手近なタイで同様のヴィパッサナー瞑想を体験できるという情報を探し当て、事前にメール1本を送っただけで現地に乗り込みました。笑 期間は、できるだけ長くやってみたいけどギリギリ我慢できそうな範囲ということで1週間にしました。お寺に向かう朝、ゲストハウスのオーナーさんに「もし瞑想に耐えられなかったら早めに帰ってくるんで部屋お願いします!!」と念押ししたのを覚えています。笑

1日のスケジュール

4:30 起床

5:00-6:30 瞑想

6:30-7:00 清掃

7:30-8:00 朝食

9:00-10:45 瞑想指導(先生より享受)

11:00-12:00 昼食

12:00-14:00 休憩

14:00-16:00 瞑想

16:00-17:00 清掃

19:00-20:30 瞑想

21:30 就寝

特徴として、一日はほぼ瞑想か清掃で過ごします。そして、さらに衝撃的なことに午後は一切食べ物を口にすることができませんでした。食いしん坊な私にこのような過酷なことができるのか猛烈に不安でしたが、結論からいうとそこまで苦しまずに上記の規律に従ってリズムよく日々を過ごすことができました。日常生活でやれって言われても絶対できないけどね。。

料金

瞑想の内容より気になる、料金について先に触れておきます。笑 ここがはっきりしないといけないですよね~。

私が行ったお寺では下記のように固定の費用が発生しましたが(格安ですが)、他のお寺では完全に個人の寄付に任せられているところもありました。参考までにどうぞ。笑

リネン 90B(初回のみ)

食事・設備 220B/日

白い着物 350B(購入)、200B(レンタル)

現在のレートでは、100バーツが330円程度なので、1泊720円程の計算です。当時利用していたゲストハウスは1泊500円程だったと記憶しているので、食事付きでこの値段なら絶妙な適正価格だと思っていました。皆さま的にこの値段設定はいかがですか?笑

で、どんな瞑想をしたの?!

一番の衝撃は、瞑想は座って行うものだけではないということでした。!!私が教わったのは、①歩く瞑想②立つ瞑想③座る瞑想です。スタイルは違いますが、取り組むことはすべて同じです。私は瞑想を、「心に浮かぶ雑念を観察し、手放していくもの」と解釈しました。一つずつ、取り組み方と感想を述べていきます。

歩く瞑想

かたちのない心の観察をする練習として、自分の体の動きを観察するのが歩く瞑想だと思います。瞑想なのに歩くの?とビックリしましたが、歩く瞑想は初心者には取り組みやすいもののように思えました。

「立っている、かかとを上げている、片足を持ち上げている、足を着地させている、重心を移動させている」とひとつひとつを心の中で唱えながら実際の動きに反映させていきます。目に見えるわかりやすいかたちで行動と思考の結びつきを意識する練習なのかなと思います。

今から自分がすることをきちんと観察し、意識してから身体を動かす。とてもシンプルなことなんだけど、何度もやっていると、意外と「観察」をすっ飛ばして注意力散漫なまま身体を動かそうとしてしまいます。「いま」ではなく、ほかの何かに意識が飛んでいる感じです。歩く瞑想では、ほっといたら散漫する自分の意識を何度も何度も、まるで粗相をしてしまう子犬を根気よく正しいトイレの場所に連れ戻し体で覚えさせようとするかのように、行動と意識を結び付ける訓練をしました。

歩く瞑想をするドイツ人のおじさん。瞑想体験の参加者は西洋人か現地人で、小規模なものだった。場所は、境内の遺跡のような場所。

立つ瞑想

その次に取り組むのが、立つ瞑想です。立つ瞑想では、体の各部分に意識を集中して感覚を観察します。身体の各部分をぐるっと一周観察して1セット終了です。では、身体を観察するとはどういうことか。それは私の場合、脈の鼓動・熱を感じることでした。首、脇、ひじの内側、手首、腰、おしり、ひざ裏、くるぶし、足裏というように身体の片側から始め、一周してまた首まで戻るように観察しました。

この瞑想を始めたばかりのころは、ほとんど身体の感覚をつかむことはできませんでした。それでも注意深く探っていると、あるときそこに鼓動があることに気づきます。一度気づくと、なぜ今までそれを感じていなかったのかと思うほど確かに感覚があることがわかります。

意識下にないときでも絶えず鼓動する身体の部分を発見した時、まるでその部分が自分からは独立した存在であるように思えました。観察を続けて様々なパーツの鼓動を捉えられるようになるにつれて、バラバラだった心身が徐々に一体感を持つようになってきます。

しかし、やはり物理的な体は別々の存在が集合してひとつの自分という存在を形作っているのかなという思いが強いです。自分の感情と足の裏の細胞の働きが、私という一つの存在だということは頭ではわからなくもない、、が、どうにも腑に落ちない。なぜそこまでして全身全霊でこの身体を生かそうとしているんだろうという不思議の方が強いです。

このように神秘的な疑問もわきましたが、それとは別に立つ瞑想では心地よくリラックスができました。

座る瞑想

座る瞑想で体感したことはいろいろあります。この瞑想は先に述べた二つの瞑想に比べ、意識を縛るものがないため格段に難易度が高かったです。

歩く瞑想は行動する前に意識を集中しましたし、立つ瞑想は身体の特定のポイントに意識を向けました。しかし、座る瞑想では意識を持っていく場所がないのです。私は、ウォーミングアップとして先に述べた二つの瞑想を行い、その後座る瞑想へと移りました。どうやら、むしろ意識を開放して手放す感じ、のようです。

行き場を失った私の感覚はそれはもう呆れるほど色んな方面に意識が飛躍し、雑念だらけの現実に突き付けられました。笑何も考えないように、頭を空にするように努めましたが常に何かしらに思考が引っ張られて行っています。「いま何時かな」「虫が飛んできたぞ」「足が痛いな」「そういえばあの時あんなことがあったな」「いやいや、考えたらだめだ」「おなかすいた」「早く終わらないかな」など。。。

しかし、教えによると、雑念が浮かんできてモヤモヤするのは瞑想が上手くいっている証拠だということです。浮かんできた雑念を観察し、条件付けをして手放す。ひたすらその繰り返しをして執着を開放し、執着をなくして苦しみを断ち切るという感じなのかな。。

このような煙をつかむようなことを一日何時間もしました。正直やり方があってるのか間違ってるのかよくわからない。お坊さんは、毎回の瞑想時には一言二言アドバイスをくださいますが、まったく手がかりにならない。

そんな中、あるとき、「瞑想に入る度に何か話すというのは、説明のしすぎだ。本当はこんなに説明はいらない。」とおっしゃってました。それで目が覚めました。たぶん、瞑想では(瞑想に限らず)答えを追い求めちゃいけないのかな、と。

今までは、あまりにも回答を得すぎていたように感じます。当時はそこまで思い至りませんでしたが、今思うと、日常生活ではいかに早く効率よく物事をさばくかということばかりが重視されている世の中で忙しく生きているように思います。そんな中瞑想に興味を持ったのはせかせか生きることへの疑問からだったはずなのに、瞑想の場にも日常の価値観を持ち込んで答えを人から与えられないことにフラストレーションを感じていたのかもしれません。それからは、正解を探そうとせずにとにかく自分なりに心の観察に徹することとしました。

このようにして取り組むうちに、とにかく瞑想を終えた後には深くリラックスできることが多くなりました。静かに落ち着いていて、平和的な気持ちというのでしょうか。もちろん、集中できなかったりそわそわして不安感が付きまとったりというような時もありましたし、瞑想してたのか寝てたのかわからないようなときもありました(たぶん寝てた。笑)。

でも、何回かに1回はすごく満ち足りた穏やかな気持ちになれたのです。後にも先にも、こんな感覚を味わったことはありません。これが私が瞑想で得た一番貴重な経験だと言えますし、実際に求めていたことだと思います。良かった。

そのほか、座る瞑想について当時綴っていた日記に、自分が書いたとは思えない面白い一節があったので紹介します。「お坊さんが夜の瞑想の時間にポ~ンという音を響かせたとき、闇に紫の大輪の花が漂っているイメージが浮かんだ。あと、水面に落ちる雫と、水面のゆらめき。そういえば、音は波動だ。」

超鈍感な私がこんな感覚的こと思ったんだ?!と、読み返してみてとてもびっくりしました。普段は俗世で雑念にまみれて生きてるけど、毎日瞑想をして感覚を研ぎ澄ませていたこそこのように感じたのかなぁと思います。

最後に

1週間お寺に泊まり込んで瞑想をして、とても多くのものを受け取ったように思います。その中でも特に、①深いリラックスとはこういうものかと体感できたこと ②信仰する姿の美しさに純粋に心を打たれたこと というのは大きかったです。

毎日、夕暮れ時には蝋燭が灯されたお堂でパーリ語のお経が唱えられていました。その柔らかい語感と優しい抑揚はまさに歌のようで、意味は分からなくてもそっと心に訴えかけてくるものがあります。信仰する姿にしなやかな強さを感じて少し羨ましく思うのと同時に、自分のルーツにも仏教が関わってることが嬉しくも感じられました。

これからも自己のルーツとしての信仰に向き合っていきたいし、世界のまだ見ぬ信仰の姿も目撃したいと思います。

ヴィパッサナー瞑想を体験してみたい方へ

世界各国に瞑想施設がある用です。もちろん日本にも!

参考までにどうぞ。

・日本(千葉、京都)https://www.jp.dhamma.org/ja/

・ワットウモーン(チェンマイ、タイ)※私が参加した場所 http://www.watumong.org/web/187/wat-umong-meditation-center

自己紹介

佐藤由佳

1992年福岡生まれ。旅人。未知の土地のまだ見ぬ世界への並々ならぬ好奇心に突き動かされて、長期休暇で出る片手間の旅を辞め、旅を本業にする決心をする。手に職なし、芸無し、資金なし。だけどなぜだかわからないけど旅が好きで好きでしょうがないため、情熱と若さの勢いを頼りに旅立ってしまいます。座右の銘は”Let’s make it happen!” 「実現させちゃおう!」

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